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​お茶の間の孤独

お茶の間の孤独とは、、

聴者の家族に囲まれている

耳が遠い高齢者だったり

聴覚に障害がある人が

家族団欒のひとときである場で孤独を感じてる

ということを意味してます

現在では、アメリカ人による論文により

”ディナーテーブル症候群”と言われています

 

以下、ろうなびHP​参照にして

綴らせていただきます

原本サイトは

こちらから

 

聴者の方々は

何気なく聞こえてくる音の情報を感知し

自分の知識や情報につながっていきます

それらを、”偶発的学習”と言われ、

たとえば、

親同士で仕事で何があった、

ニュースでこんな事件があったと会話をしているのを聞き、

聞こえる子供は情報として蓄積され、知識に繋がる。

 

日常における会話は、知識の宝庫でもあり、うんちくの宝庫でもあり、社会的マナーを自然と身につける大事な学習の要素ともなる。

 

しかし、聞こえづらい・聞こえない子供、高齢者は、

何気なく行われる会話についていけず、疎外感を抱く。

 

1対1の会話ならまだ

相手が聞こえるように対応をしてくれたり

唇の動きをみて会話を理解できたりするが

《聴覚障害者1名》対 《聴者2名》となると

一気に会話がついていけなくなる。

唇の動きにもついていけないし

誰が喋っているのか追いかけることすら困難になる。

気がついたら、”天然ちゃん”ポジションにいたり、

誰にでもいい顔をしてしまう存在になってしまう。

​作り笑い、ニセ相槌のプロになる。

聴者の中で生きる聴覚障害者あるある笑

 

当事者である私自身も、

聴者が2名以上の会話になると、

2割くらいしか会話が理解できない。

 

となると、

置いてけぼり感も強く、

人との距離感が近くなるのにも時間がかかってしまう。

 

それが、聴覚障害者の日常。

 

じゃあ、どうすればいいのか。

 

残念ながら、それらを解消するにはとても厳しい。

家族全員が、友人たちが手話を使えるようになったとしても、

完全に拭い去ることは難しい。

 

私の場合、割り切る。開き直る。

そう、割り切るしかないのだ。

 

目が見えない人が見えるようにはならないのと同様に、

耳が聞こえる人が聞こえるようになることはできない。

頑張ったところで、会話10割を理解するのは不可能。

 

グループでの会話が難しい分、

個人同士での会話や交流を大事にしたり、

耳を理解してくれる友人を大切にする。

 

リカバリーすることはできないけれど、

家族や友人、職場の方々に、

3人以上の会話になると

半分以下しか聞き取れないことを周知してもらう。

 

現に、聴覚障害者の会話でも、聴者の会話でもそうだが、

どうでもいい会話もたくさんある。

どうでもいい会話は聞こえなくてもいい。

でも、必要な会話だったら周りが教えてくれる。

 

そして、交流してくれる人、

理解を示そうとしてくれる人たちに感謝する。

みんなが元気でいてくれることに幸せだと感じる。

 

聞こえないけど

聞こえない以外できることもある。

それらを楽しめばいいじゃないか。

 

と切り替えるようになってから、

苦痛だった一家団欒や親戚との集まり、

大勢での会話も楽しめるようになりました。

相変わらず、全然ついていけないが笑

 

根本的な解決は悲しいことに難しいけれど

いまある環境を

今の自分と親しくしてくれる人たちを大事にしたい。

聴者の方々が、もし聞こえない人と交流することがあったら、

会話は10割ついていけないことを踏まえた上で

大勢での会話の中にもしいたら、個人的に話しかけてもらえたら嬉しい

​ただ、それだけで十分嬉しいはず

個人同士でのやり取りは、本当に嬉しく、
話を理解できるという喜びに満ちたかけがえのない時間だったりする。

聴覚障害児を抱えるご家族ができること、

やはり、個人同士のコミュニケーションが大事になってくる。

家族みんなでの会話は難しいけれど、

本人も会話にいるんだよという意識を持ってもらえるだけで、

自分は家族の一員なんだと安心ができる。

私の家族の場合、幸い、

それぞれが濃密に関わってくれたからこそ、

”家族だけど家族じゃない”

という疎外感を強く持たないでこれたような気もする。

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